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カルマ落とし 「御茶ノ水という町が好きだったんです。 少し足を伸ばすと秋葉原だとか、後楽園遊園地だとかで賑やかなんですけれど、私は御茶ノ水の静かさが好きで。 とりわけ特徴がある町というわけはないんですけれど、メイン通りから少し中に人ったあたリ──ニコライ堂とか。あのへんの空気が好きなんです。洗練された田舎というか、やぼったい都会というか。わりあい緑が残っているんですよ。ああ、そんなこといわなくてもご存知ですよね、東京の人だから。 町って、どこであれ、そこにしかない空気感みたいなものがあるものですよね。その波長が合うか、今わないか。 御茶ノ水は、合った。そういえば、友達と、『町の色』っていうのを話したことがあるんです。町には固有のイメージカラーがあるんじゃないかって。池袋は青。秋葉原は赤──なんでだろう。赤いネオンが多いから? あはは……。たいした統一見解は得られなかったんですけれど、「御茶ノ水は緑」というのだけはピッタリあって。そんなこと、覚えてます。 あのあたり──JR水道橋駅に近づくと特に──坂が多くて、自転車はあまり役に立たないんです。だから原付自動車の免許を取りました。大学一年の夏休みです。行動範囲が広がりました。これさえあればどこにだっていける──。わけもなくあたりを走り回ったものです。暑くなったら本屋に入るんです。本を読みながら、汗が引くのを待つ……。 本は、そんなに読むほうじゃないんです。べストセラーとか、情報雑誌とか。そういうのをときどき読むだけ。 すみません。 東京の夜って、お墓みたいじゃないですか。 昼間はあんなに賑やかで人がいっぱいなのに、夜になると誰もいない。そういうのがお祭りの後みたいでいやだったんです。哀しい気持ちになるから。新宿で飲み会があって終電を逃したとき、歩いて家に帰ったんですけれど──哀しかった。すごく哀しくて、涙が出そうになりました。核戦争のあと、世界で一人だけ生き残っちゃったみたいに哀しかった。コンビニは開いてます。でも、コンビ二の蛍光灯もすごく白々しく見えた。切り離された感じ。ひとりなんだって、思った。 でも、御茶ノ水の夜はそうじゃないんです。 もちろん人はいないし、静かです。でも、いやな静けさではないんです。せいせいとした、凛とした──昼間のおまけじゃないんだって。そんな夜。優しい夜。 家賃は安くはなかったですね。でも、親の仕送りがあったから。半分の6万円はそれで賄っていました。残リはアルバイト代で。友達は沿線に引っ越せって、しきリにアドバイスしてくれたんですけどそれでも御茶ノ水が好きで。 あの日もアルバイトにいく途中だったんです。新宿の××って喫茶店。サラリーマンのひとが打ち合わせで使う喫茶店で──笑えるでしょう? みんな笑うんですよ、じじくさいって。 中央線を使うんですけど、よく遅れるんです。ほら、人身事故とか、いろいろ。その日もなにがあったのかしらないけど、いったん、代々木の手前で止まっちゃったんです。10分くらい止まっていたかな? ……いえ、昼間だから混んでいなくて、そういう意味でつらいということは。ただ、バイトに間に合わないって、焦っていました。時間は守るはうなんです。一度も遅刻したことないです。いやなんです、そういうの。すごく。別にとくべつ几帳面というわけじゃないんですけど、時間は、うん。だから焦ってました。 そしたら、胸の部分にビシャーッって。 最初、野球のボールでもぶつけられたと思ったんです。液体というよりも、固体がぶつかった感じで。でもじっとりとしていたから、ああ、これはぺンキかなにかだって。 買ったばかりの白いTシャツだったし──こいつはなんてことするんだ、って、すごく腹が立ったんです。だから、前に座ってる子をジロッってにらんだら、その子も私を見てた。目と目が、合ったんです。高校生くらいの男の子で。とたんに、怖くなった。殴られる、って思いました。どうしてかわからないけど、殴られるって。 でも、なんかその子、真っ赤なんです。首の下からズボンまで、真っ赤で。のどからぴゅー、ぴゅー、って噴き上がってるんです。スプリンクラーみたいに……ああ、血だ、って──。 吊り革をつかんだ手がこおりついて、逃げられなかったんです。 だから助けて、って叫びました。手が取れないんです、助けてください、って。 まわりのひとたらは、私の声で我に返ったみたいでした。悲鳴が聞こえて、隣の車両に逃げていく人とか、げえげえ吐く音とか。私は凍りついたまま、金縛りのまま。目をつぶって助けて助けて助けてって。 そうしたら、ずしっ、と抱きつかれたんです。 心臓が上まるかと思いました。 反射的に目をあけました。 血まみれのその子が席から立ち上がって、私に抱きついていました。 耳元で声がしました。 「ぺちゃぺちゃぺちゃっ」 って聞こえました。 だから 「えっ?」って。 そしたら大声で──。 「ワスレルナ!」 大声で言ったんです──」 依頼人はそこまで言うと、深い沈黙の中に沈みこんだ。 彼女の視線は、テーブルの上のマグカップにじっと固定されていた。 マグカップのなかのコーヒーはすっかり冷え切って、表面にしなびた膜ができていた。東京を引きあげるときに持ってきたのであろう、テーブルやソファーは品がよく、垢抜けていた。けれどもオレンジやイエローのポップな家具はこの和室にはひどくなじんでおらず、どこか現実味を欠いていた。本来ここにあるべきではないものたち。ある種の哀しみすら湛えていた。クーラーが効きすぎていた。まるで小酒落た冷凍庫にいるみたいだった。 話を終えた彼女は、ひどく老け込んで見えた。 僕を出迎えて、コーヒーを入れて、ソファーに座ったときから二時間しか経っていないのに、もう200歳も歳をとってしまったみたいだった。彼女はマグカップを見つめていた。けれども本当はマグカップを通り越えたどこでもない空間をじっと見つめているのだった。彼女の目には何も映っていなかった。暗い井戸みたいなくらやみが、ぽっかりとあるだけだった。 本当は魅力的な女性なのだろう、と僕は思った。 御茶ノ水の坂ですれ違った人たちに、春の木漏れ日みたいな微笑みを浮かべさせる女性。けれども今の彼女からは、そうした種類の美徳がことごとく失われてしまっていた。ひどいことに、彼女は人間にさえ見えなかった。かわいそうなミイラみたいに乾いて、消耗していた。 そしてそれこそが、人狼輪廻教会が彼女にかけた呪いなのだ。 人狼輪廻教会。 チープな名前だ。彼らは拠るべき教会を持たなかったし、輪廻なんて信じていなかった。もちろん人狼でさえなかった。 その名前のこけおどし加減が、本質的な彼らのチープさを物語っていた。とどめに彼らはインターネット上にのみ存在する少年少女のカルトだった。電脳カルト人狼輪廻教会。勘弁してくれ。そして人狼たらは制暦2002年の夏──7月1日正午ちょうどに様々な場所で一斉に喉を掻き切り、自らのチープ性を完壁にしたのだった。 『互いの顔さえ知らない少年少女たちが──』 『デートの待ち合わせでもするかのように示し合わせて同時刻に命を絶つ』 『携帯電話によるうわべだけのコミュ二ケーションに不安を抱き──』 『ウソが横行する社会に共感を覚えられず──』 『電脳上の擬似コミュ二ティに居場所を見つけた少年少女──』 『そしてそれを永遠にするためには死を選ぶしかなかったのだ──』 人狼たらはウルトラチープな殉教者だった。ありがちな現代社会が生み出した、ありがちなピエロだった。多くの人間は驚くと同時に、鼻白んだ。「やれやれ」と思った。「こいつらはどうしてこんなにも馬鹿なんだ?」 彼らは間抜けだった。しかし、自分たらの意思表明がすぐに忘れ去られることぐらいは理解していた。その尊さに見合わず、自分たらの行為がワイドショーのドブ川に流れ消える数々のゴシップのひどつに成り下がることを知っていた。 だから人狼たらは個人に呪いをかけたのだった。 社会に名を刻むことができないのなら、個人にそれを刻んでやろう。 見知らぬ他人の前でいきなり喉を切った。 相手の目を覗き込んで言った。 「忘れるな」と。 彼らは、彼女たちに、革命への参加を強制した。傍観者として通り過ぎ、忘れることを許さなかった。共犯者に仕立てあげた。彼らは死んだ。しかし、ゼロにはならなかった。彼らがなにを考えていたのかは知らないし、知りたくもない。しかし、その想念は確かに残ったのだ。少なくとも、僕の目の前で虚空を眺めている(あるいは彼女自体がすでに虚空そのものなのかもしれない)依頼人の心には、深い傷として残った。 呪いとはすなわち、そういうものなのだ。 僕はアタッシュケースを膝の上に載せ、ロックをはずし、小瓶を三つ取り出し、机の上に一直線に並べて置いた。 薄暗くなった部屋の中で。小瓶は宝石のように輝いていた。 依頼人の顔に複雑な色が浮かんでいる。 この人はいかれているんじゃないだろうか? そして私もまたいかれてしまったのではないだろうか? 「安心してください」 と僕は言った。 「月蝕カルマ水があなたの穢れを落とすでしょう。あなたが求め、そしてあなたを救う霊水です。あなたの穢れ──カルマは相当のものです。けれども中和することができます。見たところ、三瓶もあれば足りるはずです。これだけ置いていきます。足りなかったらまた私を呼んで、お話を聞かせてください」 「あの──」 「使い方はこの紙に書いてあります。危険なものではありませんが使い方を間違えると効果がありません。しっかり目を通して、それから使ってください」 「あの──」 「ひと瓶、三万円です」 とびきりの笑顔。 鏡で何回も練習したとびきりの笑顔。 安心してください。 なにも心配は要りません。 私が、あなたを、救済してあげましょう。 悪いのはあなたではないのです。穢れなのです。カルマなのです。 さあ、穢れを落としましょう。 カルマを落としましょう。 大丈夫です。 私に任せればなにもかもうまくいくようになります。 微笑みながら僕は思う。 姉さんも、こんなふうに笑ったのだろうか──? 姉さん。 百円ショップで買ったビ二ールロープを三重に首に回して、梁からぶらさがった姉さん。 ああ、姉さんもこんなふうに笑ったのだろうか……? ![]() |